軽自動車とここなちゃん【ヤマノススメ二次創作】

 

「あー。レポートやんなきゃ。めんどくさい」
 あおいは授業で配られたレジュメを虚ろな目で見ていた。ベッドにもたれ掛かり、だらしなく脚を投げ出して。
 最近どうも、日々に張り合いがない。ただ何となく大学に行って、授業を受けて、家に帰る。土日はバイトをするか、駅前に出掛けるか。たまに友達と遊んだりも。昔はもっとキラキラした日々を送ってたのになー、なんて思いながら、でも、手は動かない。
 季節は初夏。窓から差す光が、もうそろそろ暑くてうっとうしいと感じる頃。日陰で微睡みに溶けそうになっていたところ、
「あおいー、ここなちゃんが来てるわよ」
 廊下の方から、母の声が聞こえてきた。
「え、ここなちゃん?」
 あおいは思わず聞き返してしまった。
 ここなちゃん、久しぶりだ……。最後に会ったのは、寒い時期だった。高校を卒業してからは、みんなバラバラの進路をとっていて、あまり会わなくなっていたのだ。それがいきなり、家に来てくれるなんて。
 あおいは相変わらず露出の多い部屋着で階段を駆け下り、玄関に出た。
「ここなちゃん、久しぶりだね!」
「はい。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「うん、元気よ。ちょっと最近はだらだらしてるけど……」
「そうですか。良かったです」
 久しぶりに見たここなちゃん。その眩しい笑顔は相変わらずだった。どうしてか、この子の顔を見ると、こっちまで元気になってしまう。
 そんなここなの姿に、ひとつだけ顕著に変化しているところがあった。
「ていうか、お腹。大きくなったね」
「はい。今、七ヶ月です」
 前に会ったのは確か、おめでただと分かった時。ひなたは関西の大学に下宿していて来れないから、ほのかちゃんと、仕事終わりのかえでさんを無理やり呼んで、お祝いしたっけ。
「すごいなー。あ、入って入って。今片付けるから」
 久しぶりのうれしい来客に、あおいの声のトーンも思わず上がってしまう。

 

「広いですね。相変わらず」
 中に階段まである、広々としたあおいの部屋。何年も前と比べると、ずいぶんとモノが増えた。元々の趣味だった裁縫関係のものに加えて、ザックが四つ、シューズが三つ、シュラフ、テントにストック……数々の山道具が、部屋の一角を占めるまでになっていた。
「あおいさん、大学はどうですか?」
 甘くないアイスの紅茶をストローで吸い上げながら、ここなが訊いた。
「ぼちぼちかな。けっこう暇かも。ひなたは遠くにいるし」
「飯能に帰ってくるのって、年末年始かお盆くらいですよね」
「うん」
 あおいは力のない返事をする。 
「かえでさんは、休みが平日なので、なかなか合わないんですよね。ほのかさんは、授業や実験が大変だそうで」
 五人の時間を合わせられなくなってから三年が過ぎた。ひなたは学生生活を謳歌しているみたい。かえでさんは仕事でお金を貯めて、ちょくちょく海外に出ているとか。ほのかちゃんは、地元の大学に入ったばかり。そしてここなちゃんは、高校を出てすぐに結婚して、幸せに暮らしている。
「みんな頑張ってるよね」
 あおいはここなにばれないくらいの、小さなため息をつく。
「山、登ってます?」
 ここなは山道具のコーナーを眺めながら言う。
「最近は全然……。散歩くらいなら、するけど」
「私もです。最後にみなさんで登ってから、結構経ってますよね」
「そうだね。行きたいんだけどね」
 山のことはもちろん好き。大好きだと思う。でも、なかなか都合が合わなくて、ひとりで登ることが多くなるにつれ、誰かと一緒に行って、その経験を分かち合うということに飢えていたのもまた事実だった。大学での怠惰な毎日に飲み込まれていく中で、ひとりで大きな山に挑む情熱は徐々に消え失せ、いつしか道具を眺めるばかりになっていた。
「あ、ごめん。なんか暗くなっちゃったね」
 感傷に浸りかけたところで、あおいは慌てて自身を正す。最近はみんなと話をすると、いつもこういう気持ちになってしまうなぁ。
「ここなちゃん、今日は夕方まで?」
 これまでなら、夕飯食べて行きなよ、とか、泊まって行きなよ、とか普通に言えたのだけれど、彼女が結婚してからは、なんとなくそうは言いづらかった。
「あ、その事なんですけど。……今日、泊めていただけませんか?」
 その意外な答えは、いつものような強かさのない、少し弱々しいトーン。
「いいけど、どうしたの?」
 少しの沈黙を置いて、ここなは目を伏せて言う。
「……実はちょっと、ケンカしてしまって」
「それは、だ、旦那さんと?」
「……はい」
 今日ここなは、家出をしてきたのだった。
「ここなちゃんがケンカか……」
 あおいは不思議そうな顔をしてここなを見る。ここなちゃんを家出させるまでになったケンカの原因って、なんだろう?
「私だって、ケンカくらいしますよ?」
 なんでもないことのように言うけど、やっぱりどこか、歯切れの悪いような調子だった。
 ともあれ、今ここながあおいを必要としていることだけははっきりと分かる。相変わらず頼りないかもしれないけれど、今日はじっくり付き合ってあげようと思う。

 

「久しぶりね。ここなちゃんが家に泊まりに来るのは」
「はい。あの、今日はありがとうございます」
 いつもよりひとり多い、雪村家の食卓。おかずの数もなんだか多い気がする。泊まっていく、って言った時、お母さん嬉しそうだったからかな。
「いいのよ。最近あおい、だらけ気味だから、ちょっと喝でも入れてやって」
「ちょっとお母さん」
 あおいが口を尖らせる。
「ここなちゃんはもうママになるのね。すごいわ」
「いえ。気がついたら、ここまで来たって感じです」
 さわらの西京焼きをつつきながら、少し照れるように言うここな。
「色々悩むこともあると思うけど、力になるから、あおいを通じて連絡してね」
「はい。ありがとうございます」
 さっきの弱々しい調子は隠されていて、いつものここなという感じだった。
 これからママになるここなと、その先輩の母。何か通じ合っているのか、ふたりの会話は弾んだ。あおいはいまいち話に入りきれず、箸を動かす時間が増えていく。
 ――ここなちゃんの方がずっと大人だ。あおいはふたりが楽しそうにしているのを見て、だらけた今の自分との落差に苛立ちを覚える。
 頑張らなきゃ。みんなそれぞれの道に進んでも、しぼむことなく、自分のやりたいこと、やるべきことを通している。私も胸を張って報告できるように、気を新たにしないと。
「……あおいは今大学二年だけど、そういう話はないのかな?」
 なんとか会話に混ざろうとしたあおいの父が、思い切り地雷を踏みつける。 
「ないよ! そんなの!」
「こら、お父さん」
「あははは……」
 ここなも思わず苦笑いだった。

 

 あおいの部屋には布団が二枚敷かれていた。
 折角なら並んで寝たいね、ということで、出してもらったのだ。
「今日はありがとうございます。すごく楽しいです」
 ここなはやわらかいウェーブの掛かった髪の毛を、丁寧に梳かしている。
「ごめんね、お母さんお父さんがうるさくて」
「いえいえ。楽しかったですよ」
 思えば、どうして来たのとか、そういう話は食卓ではのぼって来なかった。ただただ、遊びに来たお客さんとして、ここなちゃんは扱われていた。
「あの、今の写真撮って、LINEに上げませんか?」
 ここなはバッグから携帯電話を取り出して、カメラを起動した。
「うん、いいよ」
 あおいは携帯電話を掲げるここなのそばに寄って、カメラの前で小さくピースを取る。こういうところは、昔とぜんぜん変わらない。
 最近あまり動かなくなった、五人のLINEグループ。主にひなた、時々かえでさんが行った山の写真なんかを上げてくれるけれど、あおいは返事をしないことも多くなっていた。
「……すぐは既読つかないね」
「仕方ないです。好きな時に見ていただければ」
 あおいはこのLINEグループの背景を、五人で登った山の写真にしていた。みんなは、何か設定しているのかな。
「そのうちまたみんなで山に行ったり、したいね」
 昼間と同じような言葉がまたこぼれる。
「そうですね。最近全然登れてないので、体力が追いつくかですが…」
「いや、ここなちゃんはまずお腹の赤ちゃんが……」
「そうですね。ふふふ」
 ちょっと小悪魔っぽく笑う。これから赤ちゃんを産むとは思えないほどに、手足が細い。昔からそうだったけれど、なんか、中学生の頃からほとんど大きさが変わっていないのだ。
 でも、顔はずいぶん綺麗になったと思う。いや、昔から可愛かったけれど、歳相応の落ち着きというか、経験を重ねて美しさに磨きを掛けてきているような、そんな気がした。そう考えると、自分の顔は昔から全然変わってないかも、なんてあおいは思う。重ねるものを、重ねていないからかな。
「ねえ、ちょっと触ってみていい?」
「いいですよ」
 あおいはそっと手を近づけ、ここなのお腹をパジャマ越しに触る。思っていたよりもずっと固くて、張りがある。そして、温かい。この中に、新しい命が育っているなんて。言葉では飲み込んでいるつもりだけれど、どうしても果てしなく遠い現象のように思えてくる。
「すごい。すごいね」
「はい、すごいです」
 自分もいつかは、こうなる時が来るのだろうか。他人事のように、あおいは思う。

 

 夜が更ける。楽しかったあの頃の話や、これからの話がひと通り出尽すと、自然とことの核心に近づいていく。ここなが少し眠そうにしていたので、あおいはそろそろ布団に入ろうかと提案した。今日はよく話したと思う。普段の一ヶ月分、というのは言い過ぎだけれど、一週間分くらいはあるだろう。
「少し、気もまぎれた?」
「はい。明日は、ちゃんとお家に帰れそうです」
 ここなちゃんも、満足そうな表情をしている。
 やっぱり、旧交を温めるのはすごく楽しい。旧交、なんて言いたくはないけれど。みんなが、ここなが頑張っている様子を見ると、自分も一人立ちしないと、とあおいは思うし、明日からしたいと思った。
「良かった。仲直り、できるといいね」
「はい」
 ここなは布団に潜り込むと、あおいの方を向いた。
「あの。今日は、あおいさんを巻き込んだみたいになって、ごめんなさい」
 掛け布団で顔を半分隠しながら、申し訳なさそうに言う。
「いいんだよ。私あんまり忙しくないし。頼ってくれて」
「ありがとうございます。今日一晩ぐっすり寝たら、落ち着くと思います」
 細くて筋張った指で、布団をぎゅっと握っている仕草が愛らしい。
「ここなちゃんは、偉いね。私よりも年下なのに」
「いえ、そんなことないです」
 でも、たまに強引なところがある。大事なところは譲らないその強かさはなんとなく共感できる。
「……本当は、そんなつもりじゃなかったんですけど。ついカッとなって
 ここなは、今日のことの顛末について、やはり顔を半分布団で隠しながら、話し始める。少し眉毛が下がっている。
「……最近、お腹がかなり大きくなってきて。家に居ることが増えたんですけど、あんまり構ってくれなくて」
「旦那さん、お仕事忙しいの?」
「それもあるんですけど。休みの日とか、よくお友達と遊びに出てしまうんです」
「それはひどいね。私だったら怒る」
「今日はお仕事お休みだったんですけど、またお友達とサッカーをしに行くって、朝から出掛けちゃって。それで」
「ひどい! ひどすぎる!」
「はい。それで今こうして……。本当は許してあげたいんですけど」
「甘いよ、ここなちゃん。おさえるところはおさえないと、つけあがるよ。私、分かるもん」
「さすがあおいさんです。経験、あるんですね」
 訊かれると、あおいは珍妙な表情になる。そう、そういう経験が……似たような経験が……まあ。
「でも、私も黙ってばかりじゃないんだぞって、見せなきゃって思って」
「その通りだよ。ここなちゃんが正しいよ」
 あおいは思わず拳を握る。
「はい。今晩は困らせてやって、明日しっかり説得します」
 先ほどからここなの携帯電話が何度か鳴っているようだったが、目もくれなかった。
「……でも、ちゃんと向き合えるのって偉いと思う」
「いえいえ。彼もまだお子様ですから、こうでもしないと、分からないんです」
「ここなちゃん、お母さんみたい」
 あおいはくすくすと笑う。
「そうですよ。もうすぐお母さんです」
 二人でくすくすと笑う。
「私もなんだか、元気が出てきた」
 あおいがそう言うと、ここなは意外そうな顔をした。
 あの頃は楽しかったし、今も仲良しだけど、それだけじゃ前には進めない。誰が何をしていても、私は私だという思いを持たないと、やがてはうずもれてしまう。何度か思っては忘れてきたけれど、今度こそは、忘れないようにしないと。成長したここなの姿をまじまじと見つめて、あおいはまた拳を握る。
「ねえここなちゃん、結婚生活って……」

 

「あおいさん、お世話になりました」
「いえいえ。またいつでも遊びに来て? 連絡待ってるよ」
「はい!」
 ここなは薄く化粧をしている。外出しない日でも自分を確かにするために軽くおめかしをするそうで、そういうことに不慣れなあおいは、この朝にちょっとコツを教わったりもしていた。
 2人で門を出ると、一台の軽自動車が停まっていた。黒のワンボックスで、なんだかいかつい表情をしている。タイヤも薄くて、あおいはちょっと嫌な顔をする。一体誰が……?
 軽自動車のウインカーが二度点滅した。キーの持ち主は、ここなだった。
「これ、ここなちゃんの!?」
 あおいはまさか、という顔をする。どう見てもここなちゃんの趣味とは思えないので、きっと旦那さんが決めたのかな。よく見ると、ルームミラーに、ぐんまちゃんと、夢馬くんと、ムササビ……いや、モモンガのマスコットがぶら下がっている。
「はい。今のお家は車がないと不便ですから」
「そっか……っていうか、そんなお腹で大丈夫?」
「大丈夫です。もう少ししたら、ダメかなとは思いますが」
「そ、そう……。気をつけてね?」
「はい。ありがとうございます」
 いつもの笑顔。見ているだけで、こっちまで元気になってくるような、眩しい笑顔。
「あおいさんのおかげで、充電できました。これから、いっちょやってきますよ」
 そしてその笑顔は、強かさを含んだものに変わる。
 ここなは運転席に乗り込み、エンジンを掛けた。ちょっと威勢のいい排気音が響く。背の高い、グラスエリアの広い車体に小柄なここなが座っていると、なんだか金魚鉢みたいでちょっとおかしかった。
「じゃあまたね。今度また集まろう?」
 ウインドウを下げて会話を交わす。
「はい、行けそうな日、またLINEします」
「私も。LINE、もうちょっと活発にしよう」
「はい」
 じゃあね、と手を上げると、ここなはウインドウを閉めて、低い音を響かせながら、ゆっくりと発進して行った。
 あおいはそれを、角を曲がって見えなくなるまで見送った後、まずはレポートをやっつけよう、と思った。