姉の歯ブラシを噛んだ日

 

 姉が僕の下宿先にやって来た。

 なんでも、ネットで知り合った仲の良い友達が僕の家の近くに住んでいるらしく、これから会いに行く時は利用させてほしい、とのことだった。じゃあ僕の家じゃなくてその人の家でもいいじゃないか、と思ったが、その友達は男で、実家暮らしで、家に泊めてもらうなんてとてもできない、そんな間柄じゃないから、と言われ、それならと姉を受け入れることにした。

 姉はずかずかとしていながらも、どこか慣れない様子で僕の家に上がった。身近な人なのに別人の家みたいだよ、と姉は言った。姉は日曜の午後に僕の家に来てすぐ出掛け、夜行バスの前まで遊び、再び僕の家に来て挨拶をして帰って行った。その時の姉は、本当にただ仲の良い友達と遊んできたような素振りだった。

 姉が来るのは1回きりではなかった。それから3ヶ月くらいして、再び姉が下宿先にやって来た。今度は、土曜の夜に前乗りをしてきた。理由を訊くと、昼から遊びたいから、と返され、ずいぶん仲が良いんだな、と思った。姉が僕の部屋に泊まるのは、これが初めてだった。ろくに干しもしていないかび臭いベッドを姉に譲り、僕は床に薄い布団を敷いて寝た。なんだか僕が姉の遊びの踏み台にされているようで、少しだけむかついた。

 それから姉が来る頻度は徐々に増えてきた。3ヶ月に1回くらいだったのが、ほぼ毎月来るようになった。その都度、土曜に昼行バスで前乗りをし、日曜の夜に夜行バスで帰って行った。

 洗面台の掃除をろくにしない僕は、姉が来るたびにメイクついでにぶーたれながらも掃除をしてもらっていた。洗面台だけじゃない、台所やトイレも。おかげで僕の部屋は周りの友達に比べるとだいぶ綺麗な部類になった。時には夕飯の材料を引っさげて現れ、美味しい料理を作ってくれることもあった。姉の料理など実家に居た頃は食べたことなどなかったので、一体どこで練習をしたのかと感心してしまった。

 いつしか1月に1度は、土曜を姉と一緒に過ごし、日曜は姉の帰りを待ちそして見送るという週末を過ごすようになっていた。そして、今回もその流れだろうと僕は思っていた。

 土曜の夜、姉の作ったグラタンを食べていたら、携帯電話を神妙な目つきで眺めながら、予定が直前で急にキャンセルになった、日曜も康平と過ごせないか、と言ってきた。僕は特に予定もなかったので、いいよ、と返した。姉にどこか行きたいとこある? と訊いたら、水族館、と答えた。

 意外だった。僕はぶっちゃけ、姉の友達というのは彼氏のことだろうと思っていた。姉はちょっと地味で控えめだけれどそれなりに可愛い方で、恋人も何度かできたようだが、そういうのを昔から隠したがる奴だった。中学時代、高校時代に居た彼氏も、食卓で母にばらされて初めて知ったパターンが殆どだった。特に何も言わないけれど繰り返し訪れているあたり、今回もそういうことなのだろうと僕は思っていた。姉は昔から水族館が好きで、僕の住む街にある大きな水族館のことも知っており、いつか行きたいなー、今度行くからね、としきりに言っていた。なのに、姉はあの水族館にはまだ行ったことがなかった。デートだったら真っ先に選ぶのだろうに、と納得の行く理由がひねり出せずにいた。

 そんなことを考えながら、僕は姉と2人で水族館へ行った。やっぱりというか姉は大はしゃぎで、閉館ぎりぎりまで水槽にかじりついて珍しい魚の泳ぐ姿を楽しんでいた。その帰りに、ちょっといい居酒屋でお酒を飲んだ。姉が実家以外の場所でお酒を飲む姿を見るのは初めてだったし、僕が家族の前でお酒を飲むのも初めてだった。建前上は、まだだめな年齢だったから。

 お酒を飲んでからの姉との会話はあまりなかった。お互い、お酒が入ったからといって明け透けになるというタイプではなく、むしろ言いたいことが喉でつかえてつらいという感じだった。

 この週は3連休で月曜が休みだったため、姉は日曜もうちに泊まり、月曜の昼に帰ることにしていた。家に帰った姉は、着替えもせずそのままベッドに突っ伏して今にも寝ようとしていた。僕はうつぶせになった姉の身体を揺すって、まだ寝ちゃだめだって、風呂入らないと、と促した。姉は「うーん……」と小さく唸ったあと、少しの間をおいて、身体はうつぶせのまま、顔だけを僕の方に向けてきた。そして、驚くべきことを話し始めた。

 実は、先月来た時に、そのネットで知り合った友達とやらに告白され、今月会う時にその返事をする約束をしていたのだそうだ。しかし姉は、彼のことを全くそういう風には思っておらず、今までそういう風に見られていたのかと思い怖くなって、直前でキャンセルをしてしまった、ということだった。

 違う。そんなんじゃない。きっと姉は彼のことが好きだったのだろう。それで、どういうことかは知らないけれど、恋敗れてしまったのだろう。でなければ、何度もこっちへ来るはずがない……と僕は思った。

 思ったが、姉を慰めるようなうまい言葉が見つからず、そうか……姉ちゃんはいつも本当のことはなかなか言ってくれないんだね、と嫌味ともとれるようなことを言ってしまった。

 ――そうだね。私はいつも、勇気が出なくてなかなか本当のことを言えない。

 僕はほぼ反射的に、ごめん……今のは……と釈明した。

 ――康平、滅多に帰ってこないから、気になってたんだよ。

 えっ……。

 ――んーまー、あの人とはついでっていうか、んー。

 なにか返事をしなければ、と必死に頭を回したが、あぁ……そう……という、素っ気ない一言を返すのが精一杯だった。

 今までこうしてコンスタントに家に来ていたのは、彼氏だと思っていた男に会うためではなくて、……? ……?? それじゃあまるで、姉ちゃんは僕に会いに来るために来ていたようなものじゃないか……! ような、じゃなくって、来ていたんじゃないか……!

 考えれば考えるほど、頭の中は余計にこんがらがるばかりだった。

 姉はベッドに突っ伏したまま、いつしか寝息を立て始めた。重大な告白をするだけしておいて、放ったらかしにしておくなんて……。まったく寝れそうにはなかったけれど、とりあえず僕も、と寝る準備をすることにした。姉がきれいにしてくれた洗面所。プラスチックカップに入った2本の歯ブラシ。ひとつは僕ので、ひとつは姉の。姉はもうずいぶん前から自分の歯ブラシを僕の家に置いていたし、これを見た友達にお前彼女居るの? と訊かれたこともあった。そんなことを思い出すと、また頭の中がこんがらがり、熱くなった。

 僕はそのうち、ピンク色の透明な柄をした歯ブラシを手に取った。姉の、歯ブラシだ。もう何ヶ月も前から置いてあるが、姉が僕の家にいるのは月に一度なので、毛先の乱れはなく、新品そのものだった。

 なぜ自分でもそういうことをしたのか分からない。頭の中でこんがらがっている感情の行き場がなかったからだろうか。納得したかったからだろうか。なにせ、こういった状況は今までの人生で経験したことがなかった。より直接的な手段に出ることが怖かったから、せめてこういう手段で、姉を……姉のことを、意識しようとしたのかも、しれない。

 僕は、少しだけ足元が震えた。

 絶対にばれないという思いはあったが、それでも僕は、姉の眠る居間ではなく、風呂場のほうを向いた。

 そして、姉の歯ブラシを、僕の口の中に押し込んだ。

 僕は思わず目をつむった。歯ブラシの毛先を優しく包み込むように、徐々に口の中をすぼめていった。甘いような、辛いような、苦いような。そのどれとも言えないような味。なのに、普段僕が使っている歯ブラシとは違う味がする、ということだけは分かった。歯ブラシはまだ水分を残しており、ヘッドを倒して奥歯で挟むと、ほんのりと冷たさを感じた。シャリッという、かためのブラシが擦れる音が口内に響いた。シャリッ。僕はもう片方の奥歯でも、ブラシを挟んで擦り合わせた。そして、ヘッドを前歯へ持って行き、ブラシに吸い付いた。舌でブラシの毛先を撫でた。シャリッ、シャリッと何度か音を立ててから、きれいな洗面台から歯磨き粉を取り出し、いつもより多めにペーストを出して、そのまま歯を磨いた。かためのブラシは僕の歯茎とはあんまり相性が良くなかった。

 

 次の月、姉は来なくなった。あんなことを言ったせいだろうか。それとも彼に関する僕の予想が外れているのだろうか。

 その件についてそれとなく姉にメールをしても、あの人に会ったら気まずいから……と言うばかり。でも、理由がそれだけだったら、もう会う理由がないから、みたいなことを言うはずだ。やっぱり姉は、僕との関係にある気まずさを感じているのだろう。我ながら気味の悪い考えだったが、そう思えるだけの確信はあった。

 僕は、携帯電話で高速バスの予約ページを検索し、実家のある街へ向かう今週末の便を予約した。滅多に帰らない実家に帰ってやろう。予告なしで帰って、びっくりさせてやろう。本当のことをなかなか言ってくれない姉の、反応が見たい。その一心で、僕は実家へ帰る。その胸の内は、明かせないかもしれないけれど。

 

<了>

 

 お正月の某d祭り時に捻り出した「姉の歯ブラシを噛んだ日」というネタが3週間弱の潜伏期間を経て一部界隈で話題になりオリジナル短編小説の公開や朗読会を行う方が観測範囲外にまで飛ぶという事態に発展しており、これがコンテンツの萌芽というやつか……と嬉しさ半分困惑半分といった状況です。

 ここは発信元としても何かしらのひとつの解釈を示さなければならないだろうと思い書き上げました。某dの人が、この言葉に対する最も王道的であろう解釈を既に示されているので、おれはそれとはまた違ったテイストの作品にするよう留意しました。これをもって「姉の歯ブラシを噛んだ日」のコンテンツとしてのさらなる発展に寄与できれば幸いです。言うまでもありませんがこの物語はフィクションです。